円楽師匠が亡くなった

 円楽師匠が亡くなった。ここ数年は、肺がんや脳梗塞など、重い病にかかっておられて、笑点も休んでおられたが亡くなられたのはショックである。まだ72歳である。平均年齢より10歳若い。ほかのメンバーが80歳を過ぎても頑張っておられるのを見ると、惜しいと思う。もっと長生きしてほしかった。

 

 笑点には27歳から出演されていたそうだ。45年前だ。私が中学校に上がるかどうかぐらいの頃だ。もちろん時代は昭和である。ずいぶん昔の話だ。その頃は楽太郎と名乗っていた。私もこの襲名前の楽太郎という名前のほうになじみがある。確かお茶漬けのコマーシャルにも出ていたと思う。都会的な男前で、軽妙な語り口が魅力的だった。

 

 最近の笑点では、少しブラックな皮肉が面白かった。関西生まれの人間にとって、笑点のような東京の笑いは新鮮である。関西の笑いは自分を卑下したり、漫才でいえば相方を小馬鹿にするような身内をからかう芸が多いのに対して、東京は相手をコケにする笑いである。毒があるといってもいいか。決して自分を卑下するものではない。といって、相手に対してもからかうだけであっていじめるわけではない。とにかく、その絶妙感が魅力的だ。

これは野球の解説での時だ。最近はともかく、ひと昔前の横浜ベイスターズは弱かった。常に最下位のあたりをうろうろしていた。バッティングは抜群なのに投手力がいまいち、そしてエラーの数が多かった。守備力が弱かったのだ。それは選手全体に言えた。そして、ある日の試合だ。相変わらず、ほかの球団では考えられないエラーをして点を取られた。それを見て野球解説者が一言。「このチームは打者がいても野手はおらんのか」と。

 秀逸である。けなしているが良いところは認めている。それもこの短いフレーズの中で。なかなか関西ではこのような会話には出くわさない。江戸っ子の粋な感じがする。こういうことをさらった言えれば楽しいと思った。この言葉自体はひょっとして関西の人が言ったのかもしれないが、私が思う東京的な言葉だった。

 

 円楽さんが亡くなったときにテレビで流れていた最後の舞台。脳梗塞で左手は動かず、言葉も少し言いずらそうだ。入院、闘病後の何か月ぶりかの舞台である。観客は大きい拍手で迎えた。脳梗塞だけでなく、数年前から肺がんにもかかっている。明らかに大病を患っている顔だった。そして観客に一言。「俺の落語を聞きに来たのか。違うだろう。俺がテレビに出てないから生きているか確かめに来たのだろう」とそんな毒を吐いていた。でもこれが闘病後初めての高座であり、そして最後であると心に決めていたのだろう。涙を流すシーンもあった。

 

 笑点のメンバーには80歳を過ぎても頑張っておられる方がいっぱいおられるのに、まだまだ元気な姿が見たかった。寂しい気持ちでいっぱいである。

 

母の庭

 もうすぐ10月だ。そろそろコスモスの季節だ。家から自転車で10分ぐらいのところの休耕田にもコスモスの花が春はレンゲ、秋はコスモスである。のどかな田園風景が広がる。

 子供が小さいときは自転車に乗って出かけた。子供が3歳ぐらいの時だ。まだつたない言葉をしゃべっていた頃だが、子供がコスモスの花を見「チャクラ…桜」と言った。桜か。よく見れば、花びらが5枚ある。花の色もピンク色をしている。昔、さだまさしが作曲し、山口百恵が歌った曲に「秋桜」という歌がある。コスモスの花を見て母親を思う歌だ。その時はなぜ、コスモスを秋桜と書くのか分からなかった。だから3歳の子供が、コスモスを見て桜といったのは衝撃的だった。勿論、3歳の子供が山口百恵の歌を知る由もない。コスモスを見て桜という感性すごいな、と思った。

 

 コスモスの花は背が高い。そして打たれ強い。万博公園に行ったとき、ちょうど台風で倒れていたものも有ったがしっかり倒れながら花が咲いていた。すごいものだと思った。

 

 亡くなった母も植えていた。育てるのが簡単な花だ。花が終わった後の種を次の年に植えるべく残していた覚えがある。幼稚園に通っていた頃の話だ。もう50年以上も昔の話だ。母は、色々な花を植えていたような気がする。春のチューリップ。夏の朝顔、ひまわり、秋のコスモス、梅の木、桃の木、そしてあじさいと梅雨の頃にグミのような食べられる実がなる小さな木もあった。一年中、何かしら花が咲いていた。そうだ、父がハイキングの際、道に生えて踏みつけられそうな山つつじの花を移植したものも有る。本当は山の草木を抜くのは違法なのだが、踏みつけられて枯れるぐらいならと持ち帰ったものだ。その頃は50センチぐらいの高さがあり、薄桃色の花を咲かせていたが、持ち帰った時は手のひらに乗るぐらいの苗だったと聞いて驚いたのを覚えている。

 

 花だけでなく、山椒の木や大葉、パセリなどもあり、薬味に使っていた。母が無くなり、庭から草花の類は消えた。しかし、桃の花など、木の花は母が亡くなってからも花を咲かせていた。特に桃色と白い花が混じり合う桃の木は圧巻だった。ぶどうの気も有った。母が亡くなった後、父が絵画教室に通い、その絵を描いた。夏の終わりという様な題だったと思う。誕生日の日の新聞に今年始めて収穫したぶどうの写真を見てブドウの房の房を名前に入れ込んだぐらいだから、父もブドウが好きだったのだろう。

 母は50年前、37歳の若さで死んだ。父も昨年、91歳で死んだ。昭和はずいぶん前の話になる。

 

 コスモスの時期になっただけで色々な事を思い出す。50年前の庭の様子も鮮やかに。

ユーチューブだらけの1年間、2000時間は見てしまった。そしてこれからも

 相変わらず、ユーチューブ三昧。色々なものを見ている。この1年でどれだけ時間を費やしたか。そしてその中で、有益な情報がどれだけあったのか。ユーチューブを見始めてから大体1年ぐらいだと思う。少しばかり、振り返ってみたいと思う。

 

 最初に見たのは、音楽関係。自分の好きな音楽を聴く。インパネの娘だとか。ジャズも聞く。ここでジャズの知識を手に入れる。自分が好きなのはビッグバンドによる演奏。À列車で行こうで行こうとか軽快なのが好き。しみじみしたものは眠いだけだった。

 世界史全般。フランク大帝などやっと理解できたものもある。地理のケッペン気候分布図。これも面白かった。次に野鳥。今まで分からなかった野鳥の名前がわかって面白かった。エジプトの古代文明、少しお堅くてなかなか見れないがこれもいい。あと歴史ミステリー的なものにはまったこともある。

 あとお金の話。節約ユーチューバーというジャンル。あと資産運営とか。得たもの。格安スマホに変えたこと。お金の心構えが出来た事。最悪、5万円で生活できる話。家賃最低、2万円。食費に1万円。光熱費と通信費で1万5千円、その他で5千円。できないことはない話。こう考えると光熱費と通信費は恐ろしいな。生活の3割を占めることになる。最低でどれだけで生活できるか。考えることができる。私の場合は、公団の家賃が5万円。光熱費、通信費で1万5千円。食費が1万円。その他で2万円。10万円あれば生活できるわけだ。もし遺族年金になっても10万円ぐらいは入る予定。生活はできる。勿論、今のところで75歳まで働くつもりだが。お金のことはいろいろ為になったかな。

 

 心理関係。これも毒親だとか色々。結局、精神科医のが納得できるかな。嫌な人間からは距離を置く。過去の嫌なことを思い出さない。将来をむやみに悩まない。健康に気をつける。糖尿病だとか、暴飲暴食をやめて運動しろ。規則正しい生活をしろ。

 

 生活全般。断捨離、捨て活。かなりのものを捨てた。今収納用品を捨てすぎて反省。片付かないのは相変わらず。いるものはいるのだ。新しいものも結構買ったし。ミニマリストにはなれない。人よりも物が多いほうが落ち着くタイプかな。終活はその時に考えよう。極端に多くなければなんとかなる。いらないものは買わない、もらわない。それだけ。スマホの使い方。QRコードの使い方など便利だった。あと洋服。色々見て自分のライフスタイルも分かった。モロヘイヤの育て方。再生野菜。もろもろ育てる系。鉄道も見たな。旅行。

 

 こうやってたどってみると、自分の生活に役に立ったり、楽しんだりしている。悪くない時間の使い方だと思う。ただ家事がおろそかになるのはね。毎日、平日4時間、休日はプラス3時間これはお約束。あとはブログを書く以外、ユーチューブばっかりでもいいではないか。本ももう少し読みたいけれど。

来年の手帳、買った?のお題について

 来年の手帳を買った?というお題が出た。今日の日付が9月20日、今年もあと3か月か、生協のチラシにも手帳やカレンダーの広告が出始めている。

 手帳は毎年買う。その割にあまり活用しない。あまり、これといった予定もない。居間には予定が書き込める大きめのカレンダーがある。そこに大型ごみの日や仕事の休みの日、病院の診察日など書く。それだけでことが足りるのだ。忙しいビジネスマンとずいぶん違う。それなのに、なんだか惰性で手帳を買う。そして、ほとんど使わなく終わる。一年後に後悔だけが残る。カバーをつけている手の平サイズのものだ。

 この手帳をまじめに活用した年もある。月のところにその月の予定を書く。そして日付のかいてあるところに体重、食べたもの、見たテレビ、今日あった出来事を書く。4行ぐらいで済む。1分メモのようなもで読み返すと面白い。だけど最近は空欄が多い。困ったものだ。

 

 さて、せっかくお題をいただいたので、一人反省会をしたいと思う。まず手帳を買うか買わないか、手帳を持ちあるか,否か。手帳を日記代わりに使うのか否か。たぶん、日記代わりに使うから、本来の持ち運ぶ手帳としての機能がおろそかになるのだ。よし、持ち運ぶものは、百円ショップで買えばいい。これには予定と自分への買い物ぐらいを書けばいい。これは仕事場でも思い立ったときに書けばいい。うまく言えないけれど表面的な行動を書く。日記の大きさなるだけ薄っぺらいものが良い。

 次に本命の高橋書店の手帳。これは日々あったことをコンパクトに書く。これは寝室に置こうか。最近パソコンは触って書き物はしない。意識改革で寝室に置こうか。この癖がつければそれでよいのだが。これは今年中に寝室で書き物をする癖をつけようか。

 

 毎日つけるで思い出したが家計簿も悩ましい。ついつい先延ばしをする。もういちいち書くのをやめて、食費は買ったところだけでいいか。その代わりにほかは木曜日に書く。生協のある次の日である。レシートは1か月分溜めても良い。1か月分、反省を込めてゆるりと書いていけばいい。私の場合、正確な数字でなく、大体の把握が欲しいのだ。人それぞれのやり方があるのでそれでいいと思う。

 

 そして人には言えないがむしゃくしゃしていることは、そうこのはてなブログの未公開のほうに書けばいい。変に自分の闇の部分、ここを見るのが嫌で手帳を開かないこともあるから。.闇は闇でおいておけばいいのだ。ちなみに公開するほうは読み返しているが非公開のほうは書いているときはすっとするが全く読み貸していない。読んでも自己嫌悪になるだけだから。

 

 いろいろ書いた。来年はこの方針で行こうか。11月に入れば書店に買いに行こうと思う。

 

 

 

ブラタモリ恐山を見る。

 先日、NHKのブラタモリで恐山の特集をしていた。恐山という場所には昔から興味があった。出川哲郎の充電させてもらっていいですか、スイカヘルメットの旅でも訪れていた訪れていたことがあったが、今回は旅番組ではなく、地学的視点から見る番組である。放送が楽しみだった

 

 番組が始まった。さっそく、三途の川を渡る橋という先ずおどろおどろしい名前の橋が出てくる(現在、老朽化のために使えないのだが)そして荒涼とした光景。火山活動の名残りである。説明を聞きながら、タモリたちは恐山のいろいろな場所をめぐる。写真で見る恐山はそれこそ地獄を思わすよう草も生えない荒涼な世界が延々と続くように見えるのだが、実際はそうでもないみたいだ。ゆるゆると歩いていると海の見える和やかな場所にたどり着く。荒涼な場所を見続けていた人間にとっては極楽のように見えるだろう。

 

 番組は地学的な説明がメインだ。面白いが私にとっては難しい部分もある。半分聞き流しだ。(一度でも行った場所なら楽しく聞けるのだが何せ行ったことのない場所なので想像力が沸かない)でも、恐山の光景がこれだけ長々と放送されているのを見るのは初めてだった。恐山が死後の世界との接点とされている何となく理解ができた。

 

 実は昭和の終わりごろ、昭和50年頃だろうか、恐山へ行く旅行ツアーが流行っていた。恐山に行くとイタコという盲目で死者への口寄せをしてくれる人たちがいて自分の身内を呼び寄せてくれるという。私はその話に興味を持った。死者と話ができる。数年前に亡くなった母と話ができるのか。小学生だった私は興味を持った。俳句をたしなんでいた祖母が「今度、吟行で恐山に行くことになった」と言って恐山の話をし始めた。私も行ってみたいと思った。母に会えたらどんな話をするだろうと。結局、祖母も恐山への吟行には行かなかった。あまりにも旅費が高かったからだ。関西から東北はやはり遠い。旅行ブームの昨今はともかくバブル前の日本の感覚では余程のお金持ちでなければ道楽としての旅行は泊りでも近くの2泊ぐらいだった。周りでも東北に旅行に行った人は皆無である。まして恐山は青森県にある。東北でも最北端である。遠い場所だ。

 

 番組でもイタコの話が少しあった。私たちはイタコは恐山にいつもいるイメージを持っているがだが実はイタコがいるのは恐山の大祭の時だけで、普段は周辺の土地に住んでおり、いわゆる地元の拝み屋さんとして生業を立てているのだそうだ。そして恐山はイタコに場所の提供をしているだけで宗教的なかかわりはないのだという。

 しかもネットで調べたら、恐山にイタコが集まり始めたのは昭和30年頃だという。終戦後10年がたち、自分の生活が落ち着き始めて人々が戦争で本来なら死ななくてよかった身内の言葉を聞きたいと思う人々も多かっただろう。東北の2011年大津波から約10年がたつ。死んだ人を思うと切なくなる。そして彼や彼女がもし生きていたら自分の人生をも変わっていただろう。もっと充実した苦労のない日々を送っていただろう。そんなやりきれなさをねぎらって欲しい。人に話したところで死んだ人のほうがかわいそうだ、死んだ人に失礼ではないかと思われるだけだ。自分自身も同情を買ったところで何にもならないことはわかっている。

 そこでイタコに死者の口寄せをしてもらって死者と会話をしたい、そんな気持ちになるのだろ。ネットを調べると、実際にイタコに口寄せをしてもらった体験談が載っていた。もう定年退職をされたそれなりのお年を召した方だ。幼少の頃、門付けとしてイタコが訪ねてきた。当時、父親が若くして亡くなったばかりだった。その父を呼び寄せてもらう事にした。あらかじめ、我が家の内情を聞いていたイタコは、にわかになくなった父を呼び出した。「お父さんも幼いお前たちを残してこんなに早くに死にたくはなかった。お前たちもお父さんの境遇に負けずに力を合わせて頑張って欲しい」と。そして私を占い、きっと大物になるよと言い残して去っていった。イタコは踏み込んだ話はしない。悲嘆にくれる人が、また生きていける、勇気づけてくれる言葉を与えてくれるのだ。嘘でもいいのだ。イタコが霊能力者であってほしい。しかしかりにそうでなくてもいい。自分を励ましてくれる言葉、自分を認めてくれる人が欲しい。そんな生き物なのだ。

 津波のあと、幽霊が頻繫に表れたという。そのことが話題になっていた。死者は生きているのだろうか。幽霊の寿命は300年とかの話も聞く。不慮の死を遂げた人の念は残りやすい、いろいろ言われる。ただ思うこと。身内の死は悲しい。そして、これは嫌な感情だが、あなたが死んだおかげでしなくてもいい苦労をする羽目になったではないか。という恨みがましい気持ち。こりゃこりゃ、恨めしやというの巡らしたは死んだ側のいう言葉だろう、生きている人間が死者に向かって言ってどうするんだ。失笑ものだが、この感情もまた事実だ。

 

 死について考えることは好きだ。生きることより死者につぶやくことのほうが好きかもしれない。それでも私は生きている。不謹慎な言い方だが生かされているという思いがなくても。テレビで恐山の光景を見ながら色々な思いを巡らした。

 

 

 

 

 

圧力鍋料理のお気に入り

  昨日、黒豆を炊いた。前日から豆を水に浸し、大匙2杯程度の砂糖を入れて、圧力鍋で2分程度加圧。ふっくらと豆が炊けた。どんぶりに一杯ぐらいの量だ。甘味は少し少なかったが本来の豆臭さが残り、それもそれなりにおいしかった。おやつ代わりに食べていたらその日のうちに食べてしまった。食欲コントロールダイエットをしているのに食欲は衰えず。おやつではないし、という言い訳。あくまでも緩くだ。

 

 圧力鍋を買ってから4年たつ。北大阪地震の年だ。昔から便利な鍋として興味があって欲しかった。しかし自分に使いこなせるか自信がなかった。使いこなせなかったら無用の長物だ。評判の良いアサヒ軽金属のものは2万円以上する。高価な買い物である。

 でも圧力鍋というもの一度使ってみたい、気持ちは抑えられない。まずは近所で三千円の安価なものを買った。ちょうどそうめんをゆでたり、結婚当初から30年以上使いこなしていたお鍋に穴が開いて使えなくなっていたところであった。普通にお鍋を買い替えても千円ぐらいする。そして圧力鍋としての機能を使いこなせなくても普通の鍋として使えばよい。そう思って購入した。アルミ製の軽くて小ぶりの鍋である。

 

 買ってから、早速説明書をじっくり読む。扱い方によって爆発する可能性がある、ということを聞いていたからだ。暑い中身が出てきて大やけど、という話を聞いたことがある。昔、およみがえる。味噌汁の入った鍋をひっくり返して太ももにやけどを負った恐ろしさがよみがえる。そんな事態は断じて避けたい。少し細かい字だったが丁寧に読んだ。

 中身が飛び出す理由。それは十分に冷えてない状態で無理やりこじ開けた時だ。この状態を引き起こさないために火をおろしてから20分以上待つこと。また火をおろしてからの加圧状態で調理が進むため、その間は待っていること。思ったよりも扱いが簡単でほっとした。

 

 最初はブックオフで本を買ってみたりした。会社で圧力鍋で使いこなしている人がいたので聞いてみた。おすすめはジャガイモ。大きいものなら半分。小さいものなら一個丸ごと皮のまま鍋に入れ、1cmぐらいの水を入れ圧がかかってきたら弱火で1分間、火をかけてそれから火を消して20分たってからふたを開ける。するとふかふかのふかし芋ができるとのこと。お手軽でおいしくておすすめだと言われた。

 私はコロッケを作るときの芋はふかしたものを使っていた。その方が茹でてこふき芋にしたものより断然おいしい。また大量のジャガイモを使うためにちまちまこふき芋を作っていられないということもある。わざわざ義母にもらった昔ながらの蒸し器を使って作っていたのだ。おいしいが時間がかかるのが難点だった。それがお鍋のお守りが1分で済むとは朗報である。

 さっそく試してみた。本当に1分でほくほくのふかし芋が出来た。蒸し器で作るよりもおいしいかもしれない。長年の憧れの圧力鍋を買ったかいがあったと思った。今でもポテトサラダを作る時など本当に重宝している。

 あとカレー作り。玉ねぎが圧力鍋で煮込むと本当にトロトロになり影も形もなくなってしまいルーと同化するのだ。こうなるとルーに玉ねぎの甘味が入り込み今までのカレーが食べれなくなるといってもいいぐらいおいしくなる。カレーのルーは市販の固形ルーのままだが。人参も柔らかくなる。歯ごたえが欲しいのでしめじを加えるとますます味に深みが出た。我が家はルーを入れた後、ケチャップとウスターソースで味を整える。お気に入りの味だ。

 それから、おぜんざい。小豆は大豆などと違って一晩、水につけなくてもざっと洗っただけで使える。だから思い立ったが吉日、小豆を洗って砂糖と塩とお水を入れて圧力鍋に火をかけて2,3分加圧、火を止めて20分。その間にお餅を焼いてなんと1時間もかけずにおぜんざいが食べられる。しかも自分好みの味で、小豆とお餅の買い置きをしておけばリーズナブルに食べたいときに食べられる。これもお気に入りの使い方だ。

 

 圧力鍋買ってよかったベストスリーを挙げるとしたらこの3つだと思う。この良さを知ればもう圧力鍋のない世界には戻れないと思う。それほどのお気に入りだ。まだまだアサヒ軽金属からもらった料理本に載っている料理で試していないものもある。余裕のある時に試していろいろレパートリーを増やしたい。

 

 

 

 

 

富永康太の食欲コントロールダイエット講座を実践する

 「もうダイエットに苦しむのはやめましょう」のフレーズで始まる富永康太さん主宰の食欲コントロールダイエット講座。最近はこの動画ばかり見ている。なるほどと思うことが多いのだ。当たり前のことを当たり前にやっていこう、継続が大事というコンセプトのようだが、私にとっては目に鱗、言われてみればそうだろうな、なぜそのことに気が付かなかったのだろうということが多い。

 

 まず、巷にあるダイエット法に関する疑問。彼曰くそこまでする必要があるのか。肥満体国アメリカと違って日本には極端な肥満に悩まされている人は人口の4%しかつまりほとんどの人が健康的には許容範囲の体重なのだ。そしてその人たちは断食もハードな運動もしていない。三食きちんと食べ、お菓子の制限もしていない。

 つまり日本人の普通の生活をしていれば、健康体重でいられるのだ。それなのに健康的標準体重より重い人は生活がどこか乱れている可能性があり、どこを改善すればいいだけで、断食や耳つぼダイエット糖質制限など無理を強いる必要はないのだ。

 いわれてみればその通りだ。世の中のほとんどの人が普通の暮らしで、普通の体重を保っている。それを実践すればいいだけの話である。まず、自分がいわゆる普通の生活に比べて乱れている部分を見つける。私の場合は、何年か前の健康診断に肥満で引っかかり、栄養指導を受けた。その時の指導内容を実践すればちなみにその時のBMIは、25‘6、標準体重が52,6キロに対して61,1キロである。肥満度1の診断である。

 

 その時の指導内容は、お菓子とご飯のお替りで1500カロリーオーバーしているのでその分を減らしていくこと。極端な減量はリバウンドにつながるので毎日97カロリー、すなわちお菓子を一日3回食べていたのを1回位になるように努力するようにだった。1500キロカロリーオーバー。すなわち成人女性の基礎代謝分余計に食べていたのだ。あら恐ろしや。

 この指導内容を見たときは大いに反省した。丁寧な指導内容だった。それなのに実行できないふがいなさ。何回かはダイエットを試みるがリバウンド。57キロまで体重を落としたこともあるがまた元通り。現在61,5キロ。あの時より少しばかりだが体重も増えている。困ったもんだ。

 

  結局のところ、食欲の誘惑に勝てなかった。我慢できなかったのだ。今回の富永先生のダイエット講座はなぜ肉体的には無駄な食欲が沸き起こるのか、そしてそれに対してどう対応するのか、そこを丁寧に説明してくれているのがうれしい。

 

 世の中には間違ったダイエット情報が多すぎる。それに惑わされないように、毎朝この動画を見てください、最近、毎朝見ている。この先生のやり方を実践すると無理なく1年で健康体重になるそうだ。無理せず地道に続けよう。