母の庭

 もうすぐ10月だ。そろそろコスモスの季節だ。家から自転車で10分ぐらいのところの休耕田にもコスモスの花が春はレンゲ、秋はコスモスである。のどかな田園風景が広がる。

 子供が小さいときは自転車に乗って出かけた。子供が3歳ぐらいの時だ。まだつたない言葉をしゃべっていた頃だが、子供がコスモスの花を見「チャクラ…桜」と言った。桜か。よく見れば、花びらが5枚ある。花の色もピンク色をしている。昔、さだまさしが作曲し、山口百恵が歌った曲に「秋桜」という歌がある。コスモスの花を見て母親を思う歌だ。その時はなぜ、コスモスを秋桜と書くのか分からなかった。だから3歳の子供が、コスモスを見て桜といったのは衝撃的だった。勿論、3歳の子供が山口百恵の歌を知る由もない。コスモスを見て桜という感性すごいな、と思った。

 

 コスモスの花は背が高い。そして打たれ強い。万博公園に行ったとき、ちょうど台風で倒れていたものも有ったがしっかり倒れながら花が咲いていた。すごいものだと思った。

 

 亡くなった母も植えていた。育てるのが簡単な花だ。花が終わった後の種を次の年に植えるべく残していた覚えがある。幼稚園に通っていた頃の話だ。もう50年以上も昔の話だ。母は、色々な花を植えていたような気がする。春のチューリップ。夏の朝顔、ひまわり、秋のコスモス、梅の木、桃の木、そしてあじさいと梅雨の頃にグミのような食べられる実がなる小さな木もあった。一年中、何かしら花が咲いていた。そうだ、父がハイキングの際、道に生えて踏みつけられそうな山つつじの花を移植したものも有る。本当は山の草木を抜くのは違法なのだが、踏みつけられて枯れるぐらいならと持ち帰ったものだ。その頃は50センチぐらいの高さがあり、薄桃色の花を咲かせていたが、持ち帰った時は手のひらに乗るぐらいの苗だったと聞いて驚いたのを覚えている。

 

 花だけでなく、山椒の木や大葉、パセリなどもあり、薬味に使っていた。母が無くなり、庭から草花の類は消えた。しかし、桃の花など、木の花は母が亡くなってからも花を咲かせていた。特に桃色と白い花が混じり合う桃の木は圧巻だった。ぶどうの気も有った。母が亡くなった後、父が絵画教室に通い、その絵を描いた。夏の終わりという様な題だったと思う。誕生日の日の新聞に今年始めて収穫したぶどうの写真を見てブドウの房の房を名前に入れ込んだぐらいだから、父もブドウが好きだったのだろう。

 母は50年前、37歳の若さで死んだ。父も昨年、91歳で死んだ。昭和はずいぶん前の話になる。

 

 コスモスの時期になっただけで色々な事を思い出す。50年前の庭の様子も鮮やかに。