ライナスの毛布に考えてしまう

 今回、目に留まったお題は「あなたにとってのライナスの毛布」、スヌーピーの出てくるピーナツシリーズに出てくるライナスが肌身離さず持っている毛布、またの名を安心毛布というものだ。私にとって漫画に出てくるライナスの毛布の印象。小さな子供なら時々、見かける行為。それが寝るときの毛布だったり、枕だったり、ぬいぐるみだったりする。それ自体、もはや必要性はないし、他人から見れば小汚いゴミにしか見えないものだが、本人にとっては捨てられないもの。そして、ゴミにしか見えなかったものも、そのゆわれを聞くと納得したりする。

 

 人からすれば、捨てたらいいのにとか、買い替えたらいいのに、と思うもの。例えば洋服やカバンなどボロボロになるまで使ったり、買ったほうが安上がりなのに修理に1万円以上使ったりする。理由は、亡くなった人にお祝いで買ってもらったり、心配して買ってもらった物。会社でもレインコートを10年以上来ていた人がいた。登山用の丈夫なものではない。普通のスーパーで5千円までで買えそうなものである。来ている本人曰く「亡くなった母が買ってくれたものだから、ついつい捨てきれなく使っている」と。雨の日の通勤は憂鬱である。その時、母親の愛情を思い出すことが出来たら、気持ちも前向きになるだろう。捨てられない気持ち、私も理解できる。  

 

 その人にとって物自体の有用性は薄れても所有するすることがその人にとって有用性があって手放せないもの。その理由は、強烈に愛されたこと、慰められたこと、励まされたこと、自分にとって自己肯定に結び付くもの。

 

 なんだか、奥が深いぞ、このお題。自分にとっては、なんだろうと思いつつ、参考のためにほかの人のブログを見る。あかん❕全部見てみたい要求に駆られて、肝心の自分のブログが書けないではないか。こんなことは初めてである。簡潔に言えば、いま使っているものには、いわゆる道具的な側面と感情的な補佐をしてくれる側面がある。

 朝日新聞の投稿でもあった。断捨離といっても、人間なかなかものが捨てきれないのだ。80代の方が亡くなった妻の洋服などを捨てるときに躊躇した。結局、断捨離でなく、感謝離だ、と。捨てるのでなく感謝して手放していこう、そんな内容だった。ちなみに、この投稿は反響を呼び、この人のエッセイ本が「感謝離」という内容で出された。

 

 「私にとってのライナスの毛布」、具体的なものを挙げる前に、この言葉の持つ意味について、書きながら思案すること約1時間。私にとっては、意味深い言葉だった。