ブラタモリ恐山を見る。

 先日、NHKのブラタモリで恐山の特集をしていた。恐山という場所には昔から興味があった。出川哲郎の充電させてもらっていいですか、スイカヘルメットの旅でも訪れていた訪れていたことがあったが、今回は旅番組ではなく、地学的視点から見る番組である。放送が楽しみだった

 

 番組が始まった。さっそく、三途の川を渡る橋という先ずおどろおどろしい名前の橋が出てくる(現在、老朽化のために使えないのだが)そして荒涼とした光景。火山活動の名残りである。説明を聞きながら、タモリたちは恐山のいろいろな場所をめぐる。写真で見る恐山はそれこそ地獄を思わすよう草も生えない荒涼な世界が延々と続くように見えるのだが、実際はそうでもないみたいだ。ゆるゆると歩いていると海の見える和やかな場所にたどり着く。荒涼な場所を見続けていた人間にとっては極楽のように見えるだろう。

 

 番組は地学的な説明がメインだ。面白いが私にとっては難しい部分もある。半分聞き流しだ。(一度でも行った場所なら楽しく聞けるのだが何せ行ったことのない場所なので想像力が沸かない)でも、恐山の光景がこれだけ長々と放送されているのを見るのは初めてだった。恐山が死後の世界との接点とされている何となく理解ができた。

 

 実は昭和の終わりごろ、昭和50年頃だろうか、恐山へ行く旅行ツアーが流行っていた。恐山に行くとイタコという盲目で死者への口寄せをしてくれる人たちがいて自分の身内を呼び寄せてくれるという。私はその話に興味を持った。死者と話ができる。数年前に亡くなった母と話ができるのか。小学生だった私は興味を持った。俳句をたしなんでいた祖母が「今度、吟行で恐山に行くことになった」と言って恐山の話をし始めた。私も行ってみたいと思った。母に会えたらどんな話をするだろうと。結局、祖母も恐山への吟行には行かなかった。あまりにも旅費が高かったからだ。関西から東北はやはり遠い。旅行ブームの昨今はともかくバブル前の日本の感覚では余程のお金持ちでなければ道楽としての旅行は泊りでも近くの2泊ぐらいだった。周りでも東北に旅行に行った人は皆無である。まして恐山は青森県にある。東北でも最北端である。遠い場所だ。

 

 番組でもイタコの話が少しあった。私たちはイタコは恐山にいつもいるイメージを持っているがだが実はイタコがいるのは恐山の大祭の時だけで、普段は周辺の土地に住んでおり、いわゆる地元の拝み屋さんとして生業を立てているのだそうだ。そして恐山はイタコに場所の提供をしているだけで宗教的なかかわりはないのだという。

 しかもネットで調べたら、恐山にイタコが集まり始めたのは昭和30年頃だという。終戦後10年がたち、自分の生活が落ち着き始めて人々が戦争で本来なら死ななくてよかった身内の言葉を聞きたいと思う人々も多かっただろう。東北の2011年大津波から約10年がたつ。死んだ人を思うと切なくなる。そして彼や彼女がもし生きていたら自分の人生をも変わっていただろう。もっと充実した苦労のない日々を送っていただろう。そんなやりきれなさをねぎらって欲しい。人に話したところで死んだ人のほうがかわいそうだ、死んだ人に失礼ではないかと思われるだけだ。自分自身も同情を買ったところで何にもならないことはわかっている。

 そこでイタコに死者の口寄せをしてもらって死者と会話をしたい、そんな気持ちになるのだろ。ネットを調べると、実際にイタコに口寄せをしてもらった体験談が載っていた。もう定年退職をされたそれなりのお年を召した方だ。幼少の頃、門付けとしてイタコが訪ねてきた。当時、父親が若くして亡くなったばかりだった。その父を呼び寄せてもらう事にした。あらかじめ、我が家の内情を聞いていたイタコは、にわかになくなった父を呼び出した。「お父さんも幼いお前たちを残してこんなに早くに死にたくはなかった。お前たちもお父さんの境遇に負けずに力を合わせて頑張って欲しい」と。そして私を占い、きっと大物になるよと言い残して去っていった。イタコは踏み込んだ話はしない。悲嘆にくれる人が、また生きていける、勇気づけてくれる言葉を与えてくれるのだ。嘘でもいいのだ。イタコが霊能力者であってほしい。しかしかりにそうでなくてもいい。自分を励ましてくれる言葉、自分を認めてくれる人が欲しい。そんな生き物なのだ。

 津波のあと、幽霊が頻繫に表れたという。そのことが話題になっていた。死者は生きているのだろうか。幽霊の寿命は300年とかの話も聞く。不慮の死を遂げた人の念は残りやすい、いろいろ言われる。ただ思うこと。身内の死は悲しい。そして、これは嫌な感情だが、あなたが死んだおかげでしなくてもいい苦労をする羽目になったではないか。という恨みがましい気持ち。こりゃこりゃ、恨めしやというの巡らしたは死んだ側のいう言葉だろう、生きている人間が死者に向かって言ってどうするんだ。失笑ものだが、この感情もまた事実だ。

 

 死について考えることは好きだ。生きることより死者につぶやくことのほうが好きかもしれない。それでも私は生きている。不謹慎な言い方だが生かされているという思いがなくても。テレビで恐山の光景を見ながら色々な思いを巡らした。