夕暮れのポテトチップ

 なんのためにいきるのかわからない。こんなスレがたった。ユーチューブでこの前見た動画だ。私もそれはよく考える。何のためにと言われても、たぶん答えは出ない。もやもやとめんどくささばかりがよぎる。

 一生懸命にしたところで何になるのか。世の中妬みとひがみと嫌がらせ。努力というものは、先憂後楽的なものであるはずなのだが、その様なものでない場合がよくある。  何事も努力から始まる。その言葉がすんなりといく人が幸せなのだろうか。達成感が欲しい。とにかく、妬みひがみの嫌がらせに終始する人間とはかかわるな。あなたよりマシという感覚で付き合おうとする人間とは極力かかわるな。その為には自分がまともな人間にならねばなぬ。

 努力とは、時間をかけるもの。しんどくなっても達成するまであきらめないこと。それを思い浮かべてみる。何のことははない、今やっているタイピングがそうではないか。パソコンが家に来た時、寒くなるまでに、タッチタイピングを覚えなければ一生できなくなると思って、パソコンにかじりついていたではないか。とにかく2か月はパソコンに張り付いていたと思う。
 そして今ここにその成果が出ているではないか。少々怪しいけれど、大体の文字は間違いなく打てるし、指が届きにくかったpの文字も届くようになったし、2か月間のへばりついていた時間は無駄にならなかった。これが努力というものではないか。しっかり役に立っているぞ。
 確かに時間は人よりかかっていると思う。でも自転車の練習でもそうである。早く乗りこなせる人もいれば遅い人もいる。でも、乗れればいいではないか。私に必要なのはひがみ根性のあるやつから逃げること。ひがみ根性のあるやつは人の達成感をぶち壊しに来る。まずそのような人間から逃げること。そして生産的なことに効率よく長い時間をかけること。そのために健康とストレス管理に気を付けること。今の私に必要なことはそれかもしれない。とりあえずはそれだな。生産能力をあげる。何だかくだらない目標が出てきた。ひがみ根性のあるやつ、見下すやつから逃げること。自分自身の生産性をあげる。野球でも3割打てれば優秀である。成果が出なかったことでなく出たことを思い出す。まずはそれからだな。

 

 話がそれた。何のために生きるのか分からない。その漠然とした言い方から対話していく行くうちに彼自身の挫折体験、そしてやりたいこと、今少しばかり鬱気味なことがあぶりだされていく。
そして最後に 憂鬱な気分に駆られるなら僕のように川辺でポテトチップを食べよう。そんな言葉と共に夕暮れの雲間から光が差し込み、川面がきらきら光る写真が出される。その光が希望の光のように見える。そしてみたこともないメーカーのポテトチップがおいしそうに見える。家の中に閉じこもっているより、夕暮れの川辺ポテトチップを食べる、たわいないけれど素敵な時間を過ごそう。というところで終わる。つらいことも多いけれどまずはそれからだろうな。