火垂るの墓の動画を見る。

火垂るの墓の映画は何度も見たことがある。最近はあまりテレビで放映しないが、ひと昔前まで、終戦記念日のころになるとよく放映されていた。見たことのある人が多いと思う。戦争で家を焼かれ、両親を失い、親戚の家に身を寄せるものの邪険に扱われ、居づらくなって出ていく。それからはいわゆる戦争孤児として生きていくのだが、生活力のない清太は妹の節子を病気でなくして自分も死んでしまう。

 終戦後もひどい仕打ちを受けた戦争孤児の悲劇だ。実際、終ものだったらしい。戦後の戦争孤児の生活は悲惨なものだったらしい国全体が飢えている。大の大人でさえ、極度の栄養失調が遠因で、治る病気も治らずあっけなく死んでいく。そんな時に我が子でもなく、労働力にもならない子どもはあっけなく切り捨てられていく。そんな子供たちは駅の近くに集まっていた。

 ÑℍKの特集で戦争孤児のことが扱われたことがある。集団疎開にいっている間に自分の家は空襲にあい、家が焼かれ親はなくなってしまう。最初は不憫がって大事にしてくれた親戚も自分の家の食べることにも困る状態になってくると、やはりわが子が一番で邪険にあしらわれていく。親が生きていた頃は優しかったおばさんがだんだん冷たくなっていく。逃げ出しても行く場所もない。駅で寝泊まりする生活が始まるのだ。

 

 見ていて胸がえぐり取られそうになった。ÑℍKで生身をさらして訴えかけていた老人は、親が生きていたころは可愛がってくれたおばさんがだんだん冷たい態度をとるのがつらかった。そして戦争孤児の生活。親戚からも国からも見放される。生活力もない、早く死んでしまえばいいという扱いにしかしか思えなかった。盗みに走るものもそれを誰が責めることができるのだろうか。ほかに生きる手段がないのだから。

 

 話が飛んだ。火垂るの墓については色々な考察がある。そしてそのことについての動画がある。この話は戦争孤児の悲劇という側面だけないのだ。両親がなくなり、家が焼かれ住むところがなくなった事実はある。しかし、清太は、孤児という年齢ではない。現在の中学2年生の年頃なら働ける年だ。九つかそこらの子供ではない。取りあえず、親戚に雨露しのげる場所を提供してもらったのだからそこを拠点に農作業の手伝いなり、大八車を引くなり、何なりと日銭を稼ぐこともできたのである。それをしなかった、できなかった彼にも問題があるのではないかと。

 

 なかなか考えさせられる動画だった。単なる戦争孤児の悲劇ではないジブリジブリでないゆえんだ。この映画で戦争が終わってからの悲劇としての戦争孤児の話戦争を知らない世代にも浸透したと思う。しかし、もっと深いところ。大人でもなく子供でもない清太の年齢からくる葛藤そんなことも組み込まれているなんて。今度、火垂るの墓の映画を見るとき、そこのところも焦点を当ててみてみたい。